式内社探訪





延喜式神名帳に記載のある古社を探訪し、考古学的側面、
地域伝承等を考え合わせ、上代の神々の実像に迫って行きたいと考えています。

延喜式神名帳は平安時代の法典であり、醍醐天皇の命により延喜五年(西暦905)八月編纂開始、
延長五年(西暦927)十二月に編纂完了。
ここに掲載されているだけで1000年を越える歴史があることになります。

 延喜式の巻九、巻十は神名帳になっており、10世紀当時の官社一覧表で、
記載神社は2861社を当時の行政区に分けて記載しています。

ここに記載の神社が「式内社」であり、平安時代に官社認定されていた神社と言え、
記載神社は10世紀頃には由緒ある神社として全国に知られていた古社であります。

しかし、この記載神社は10世紀頃有数の神社で有り、それよりもずっと早く出来、
栄えていた神社も非常に多く、特に記紀(西暦700年代初頭)の時代以降に
御祭神替えが行われた神社も多く有り、明治の祭神合祀の時代を含め実像が判りにくくなっています。

そこに地域の遺跡分布、古墳分布、地域伝承等の条件。
神社伝承、出土品分析などを勘案して総合的に考えて行きたいと考えています。

式内社には論社と呼ばれる神社があります。
これは式内登録時の神社が一体何処なのかが現在では定まらない事により、
類似した神社が複数ある場合、式内論社となっています。

近隣に該当神社が無く、記録等により場所がはっきり出来る場合は、比定地とする事も
可能ですが、長い歴史の中で場所が動く事は常であり、確実な証拠は残念ながらありません。
遺跡分布や地域伝承等により「そこであろう」と言う事であり、確実とは言い切れません。

ここで言う「宮」は平安、中世に出来たものでありますが、
その当時の有力神社の参考になるとは思われます。

神名帳にはわたくしの住む上野国神名帳というものもあります。
こちらは当時の国司が国内神459座に班幣用に纏めた国帳が原型になっています。
重要なのはこちらは神社名では無く「神名」で記載がされているのです。
これは研究する者にとっては非常に重要なヒントを与えてくれます。

先ず我が工房のある上野国式内社を自らの目で見て感じた事を綴ってまいります。

此処でのご紹介は延喜式と現状の実態に近い上野国神名帳の「群書類従所収本」
上野國惣五百七十九座  鎮守十二社を元にさせていただきます。


延喜式神名帳 上野国一宮
貫前神社

(正一位 抜鉾大明神)

群馬県富岡市一ノ宮1535


社格


式内社 明神大社 旧国幣中社

創建

安閑天皇元年(西暦531年)

御祭神

経津主神 比賣大神

御神紋
左三つ巴


この神社は非常に古く創建は安閑天皇元年(西暦531年)
物部姓磯部氏が氏神である経津主神の分霊を勧請して鷺宮に
奉祀したのが始まりだそうで約1500年の歴史を持ちます。

貫前神社の境内は「下り宮」あるいは「下り参りの宮」と呼ばれる形式で
参道を一旦登った後、総門から下った所に社殿が配置されている独特なもの。
延喜式掲載の神社でこの形は関東ではここだけです。

社伝では物部姓磯部氏が経津主神をこの場所にお祀りしたのが安閑天皇元年(西暦531年)
その前宮地では地祇として比賣大神だけをお祀りしていたのかもしれません。


御祭神の比賣大神は南天竺狗留吠国、玉芳大臣の五女との伝承も有り、
近隣地域に渡来系人と関係のある大古墳が多い事からも、
元々の祭神は比賣大神
一人だった事もその傍証になるかもしれません。

「神道集」文和・延文年間(西暦1352年~61年)には、この経緯が書かれていますが
1000年以上前の事を書いていますので、史実かどうかは判りません。
しかし、上野國は赤城大明神が一之宮だったものが二宮赤城神社になり、
他国神である女神が一之宮に鎮座しておられるようです。
古墳時代の遺跡集積状況、古墳集積状況からも史実と思われます。

531年と言えば、上野国は未だ古墳時代真っ只中ですからこの場所は
中央政権物部氏の東国対策の前線拠点だったのではないでしょうか。









貫前神社と地域遺跡分布状況。






延喜式神名帳 上野国二宮
赤城神社


(正一位 赤城大明神)


群馬県前橋市三夜沢町114


社格


式内社 明神大社 旧県社
式内論社は近隣に三社
(分社数は群馬内に118社、全国334社)


創建

五世紀~六世紀

御祭神

大己貴命 豊城入彦命

御神紋



神明鳥居を抜け、境内右手に神池と呼ばれる非常に美しい湧水を伴った
手水舎があり、その湧水の中を鯉が戯れる。
その奥に、神代文字(アヒルクサ文字)の碑があります。

拝殿の後方に一段高い中門がありその奥に本殿。
本殿は棟持ち柱を持つ神明造りで日向系建築様式、伊勢皇大神宮等と同じ形式で神文は「菊」

現在の場所に何時からあるかははっきりとは判りませんが、
社伝では御諸別命、日本武尊の創建とも伝えられる古社。

この神社から山道を2キロほど登ると、「櫃石」という上代祭祀遺跡の磐座が存在し
考古遺物も出土しているので、少なくとも弥生末から古墳時代の創始だと考えられます。

巨木や多くの社に囲まれ、うっそうと森の中に佇む拝殿からは
今にもみずらの武人が現れそうな、そんな雰囲気を漂わせる神域です。

祭神の豊城入彦命の末裔とされる上毛野氏は、古事記編纂を行った人の一員です。













延喜式神名帳 上野国二宮
赤城神社


(正一位 赤城大明神)


群馬県前橋市二之宮町886


社格


式内社 明神大社 旧郷社
式内論社は近隣に三社
(分社数は群馬内に118社、全国334社)

創建

垂仁天皇、景行天皇御代

御祭神

大己貴命
多紀理比賣命 多岐津比賣命 市岐嶋毘賣命
天忍穗耳命 天之笠早命 熊野久須毘命 活津日子根命 天津日子根命
和久産巣日命 大物主命 建御名方命

御神紋
五七の桐


現在の行政区では前橋市二ノ宮町に鎮座している。
赤城神社の論社は四か所あり、周囲の遺跡、古墳の状況から赤城神社の元の社は

群馬県前橋市三夜沢町114の赤城神社と思われますが、
延喜式が出来た
頃はこちらが二宮として掲載された可能性が高いと思われます。

濠に囲まれた非常に広い境内を持ち、往時の繁栄を想像させ、
六世紀当時の有力豪族の居館跡が神社になったものと推定されます。

特殊神事として本社へ神輿を往復させる御神幸があるそうで、
往古の本社との繋がりが何らかの形で現代に残っています。
境内には多くの祠があり、祭神数、配祀神数も多く、あたかも総社の様です。

二宮赤城神社は遺跡包蔵地の中に鎮座しており、周囲は殆どが遺跡包蔵地。
近くには六世紀の大室古墳群があり、上野国の「上毛野氏」の本拠地と推定されています。
六世紀頃には大和政権の力がここまで及んでいた傍証になると思います。















延喜式神名帳 上野国二宮
赤城神社


(正一位 赤城大明神)

群馬県前橋市富士見町赤城山4-2


社格


式内社 明神大社 旧郷社
式内論社は近隣に三社
(分社数は群馬内に118社、全国334社)

創建

不詳:古記録社殿造営
平城天皇大同元年(西暦806年)

御祭神

赤城大明神 豊城入彦命 磐筒男命 磐筒女命 經津主命

御神紋
葵 菊 桐



赤城山山頂の大沼東岸、小鳥ケ島に鎮座。
この一帯は非常に風光明媚な美しい場所で、常に観光客が絶えない場所です。
昭和四十五年に旧社地大沼南畔大洞から現在地に奉遷したとの事。

元は古代の山岳信仰が始まりと思われますが、近くに磐座等は確認できませんでした。
地祇である自然神は赤城大明神と赤沼大神と言われており、大和政権の力が
波及するに至り、主祭神が日向系の神に祭神替えされたものと思われます。

非常に長い間人々に崇敬された場所であるため、主祭神、配祀、合祀まで
含めると非常に多くの神をお祀りする神社で有ります。













延喜式神名帳 上野国二宮
赤城神社


(正一位 赤城大明神)


群馬県前橋市富士見町横室甲55


社格


式内社 明神大社 旧郷社
式内論社は近隣に三社
(分社数は群馬内に118社、全国334社)

創建

不詳:古記録社殿造営
大同元年(西暦806年)

御祭神

豊城入日子命

合祀
誉田別尊 経津主命 大山祇命 市杵嶋姫命
奧津姫命奧津彦命 建御名方命 大己貴命
木花咲耶姫命 保食命 竜田姫命 大日孁尊
素盞嗚尊 火結命


御神紋
三つ巴



地元では十二山と呼ばれていて、つつじの名所との事。
周囲からそこだけが浮いたように小さな小山に上に鎮座している。
境内からは榛名山、妙義山の稜線を美しく見る事が出来ます。

神社の周囲は遺跡包蔵地であるが、大きな古墳や遺跡は見当りませんでした。
明治六年郷社となった際に他の神々が合祀された様で、それまでは
主祭神の豊城入日子命お一人だったことがうかがわれます。

祭神の豊城入彦命の末裔とされる上毛野氏は、古事記編纂を行った人の一員であり
近隣にある赤城神社は上毛野氏一族と深い関係があると思われるのです。















延喜式神名帳 上野国三宮

伊香保神社

(正一位 伊加保大明神)

群馬県渋川市伊香保町伊香保1

社格

式内社 明神大社 県社兼郷社

創建

天長二年(西暦825年)

御祭神

大己貴命
少彦名命

御神紋
三つ巴



「上野国神名帳」(総社本・一宮本・群書類従所収本の三つが現存)
ここでは「正一位 伊賀保大明神」と記録され、一宮本では二ノ宮とされており、
一般には上野国三ノ宮と呼ばれている古社。
延喜式では「伊加保神社」とされ名神大社の格式を誇ります。


伊香保は「いかつほ」「厳秀」「雷の峰」と言い
元は榛名山への古代山岳信仰が変化したもの。

古墳時代、西暦495年に榛名山が大噴火し、この噴火で近隣の古墳遺跡は火砕流で埋没。
そこから「怒る峰」としてイカツホという言葉が生まれたらしいのです。
噴火後数百年は人が住めなかった様で、神社近隣には分厚い火山灰に阻まれて遺跡の有無は確認できていません。

7世紀後半から8世紀に編纂された万葉集巻十六 東歌の中で、国銘記のある歌は95首、
その中で最も上野国の26首が多く、上野国26首中18首が上野国西部地名であり、
うち9首は伊香保の地名を含んでいる。


伊香保呂尓 安麻久母伊都藝 可奴麻豆久 比等登於多波布 伊射祢志米刀羅」
万葉仮名で書かれていますが現在の伊香保をイカホロと言った様です。

「いかつほの神」として地祇が本来の祭神であったのですが
記紀当時の祭神替えの命、明治期の祭神替えにて現在の祭神に変更されており、
本来の古からの御祭神「伊賀保大神」と現在の祭神には何の関連も無い事が判ります。

最初の祭神は「イカツホ神」その後、素戔嗚命の子である大歳の神となりました。
現在でも近隣にある記紀以前の古社などに祭神替えの命令が届かずに「大歳の神」 
本名「天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊」が祭神となっている社が多数現存しているのです。











延喜式神名帳 上野国三宮

三宮神社
(伊香保神社里宮)


(正一位 伊加保大明神)


群馬県北群馬郡吉岡町大久保1

社格

式内社 明神大社

創建

天平勝宝2年(西暦750年)

御祭神

彦火火出見尊 豊玉姫命 少彦名命

御神紋
三つ巴


この場所に鎮座する三宮神社は縁起や伝承からすると、元は伊賀保大明神の格式を
誇る古社で、伊香保神社の里宮として近隣の遺跡地に住む人たちの
長の居館が現在の神社になっていると推定されます。

周囲一帯は六世紀から七世紀の大古墳群(大小千基以上)があり、国府にも近く、
遺跡密集地域であり、非常に長い間人々が暮らしている地域に鎮座します。

西暦750年創建だとすると、周囲の遺跡状況や近隣の神社分布から延喜式に掲載された
伊香保神社は恐らく此処だと考えられます。

現在の祭神で山宮の伊香保神社と一致するのは「少彦名命」のみであり
此処でも本来の古からの御祭神「伊賀保大神」と現在の祭神には何の関連も無い事が判るのです。














延喜式神名帳 上野国三宮

若伊賀保神社
(伊香保神社元地)


群馬県渋川市有馬1549

社格

式外社 村社
上野国神名帳 総社本では上野国五ノ宮

創建

不詳

御祭神

大名牟遅神 少彦名神

御神紋
不詳


本神社は延喜式には記載がなく、上野国神名帳の総社本には上野国五宮として掲載されています。
その名前は「若伊香保神社」となっており、周囲は縄文時代から続く遺跡地であり、
周囲一キロの間には無数に遺跡や神社があります。

この地域は現在の行政区では渋川市有馬となっていますが、古代は群馬群東部の豪族である
有馬氏(阿利真公)が治めた地域であり「伊賀保大神」を崇敬していた豪族の本拠地となります。
この地域の古墳は古く7世紀以前のものが殆どであり、三宮神社周辺は7世紀頃の古墳が多い。
この事は、榛名山の噴火と一族の移動と重なるようで興味が湧きます。


恐らく此処が有馬氏の本拠地に有った最初の伊香保神社であり、
延喜の制が出来る直前に一族の増大と国府や律令の中で有馬から三宮の地に遷座が行われ、
延喜の制が出来た後に神名帳には三宮神社が掲載されたものと考えられます。

此処でも祭神が大名牟遅神 少彦名神となっていますが、前出二社と同様で、
本来の御祭神は「伊賀保大神」であり、現在の祭神には何の関連も無い事が判るのです。