奴奈川郷

一、「ヌナカワ」をめぐって 

 「奴奈川」この名は遠く上代より伝わりし名前
681年天武天皇の命により古事記の編纂が開始され30年後の712年に完成されました。
その古事記には「高志の沼河比売」と出てきます。

713年元明天皇の命により諸国より報告させて作られた地方別の書物、
風土記のうち 出雲の国風土記、嶋根郡の条、三保の郡には
「高志の・・・奴奈宜波比売命」。

800年代に成立されたとされる旧事本紀には「高志沼河姫」。

奈良時代に出来た我が国最古の歌集、
万葉集、巻第13の歌(三ニ四七)には 「沼名河の底なる玉・・・」。

905年に編纂が開始された延喜式50巻、神名帳、
巻9、10の北陸道神352座頚城郡の最初に「奴奈川神社」。

平安時代の漢和辞典、倭名類聚抄には郡の名前で「沼河 奴乃加波」と出てきます。

 これら上代からの書物の中に「ヌナカワ」は出てきています。
しかしこの「ヌナカワ」がいったい どこにあったかという事になると、
古事記、出雲国風土記、旧事本紀には「高志の・・」と見えて います。

しかし具体的に高志はどこなのか、ということになるとこれをきちんと説明出きる文書は 無いようです。
出雲国風土記の中のいくつかの郡の条に「コシ」という表記が出てきますが、
そこで使われている文字は各郡によって異なっており「越」、「高志」、「古志」となっています。
いくら各郡に編纂責任者がいるとはいえ、同時期に異なった文字で「コシ」を表現しているのです から、
もしかすると「コシ」は文字によって、広大なコシ地域の中で、地域によって使い分けて いたのかも知れません。
私が研究する「コシ」は「ヌナカワ」を含むコシですから「高志」となります。
この「高志」の国も延喜式神名帳、倭名類聚抄には越後国頚城郡と書かれています。
よって おおよそ10世紀頃には地域的にかなり限定されてきているようです。





ニ、「ヌナカワ」の意味をめぐって
 
「ヌナカワ」「ヌナカハ」は古代にこの音を漢字に当てはめ、色々な文字が使われているようです。
沼河」奴奈宜波」「沼名河」「奴奈川」とどれも読み方は「ヌナガワ」若しくは「ヌナカワ」のようです。
古代この名を聞いた者達が、記録の際に使った当て字なのか、それとも
各表記文字毎に意味があったのか判りません。
判っている事は、古代高志に「ヌナカワ」という場所があり、それが記録されたという事実だけなのです。
 それでは「ヌナカワ」とはどういう意味なのでしょうか。
この言葉を分解すると「ヌ」「ナ」「カワ」になると思います。これらを考えてみたいと思います。


「ヌ」について
 この部分に当てはまると思われるのは、「瓊」と「沼」になると思います。
先ず「瓊」ですが、これはまさに玉を意味する言葉で、有名な「八尺瓊の勾玉」の瓊です。
読みとしては「ニ」と「ヌ」「ケイ」で、意味としては「美しい赤い玉」です。

この「美しい赤い玉」は後に出てきますが、注意が必要です。
もう一つの「沼」はまさに沼で、読みは「ヌ」「ヌマ」「ショウ」です。
意味としてはまさに沼でこの文字を分解すると「水を招く」になり、
水が澱んで溜まるところの意味になるようです。

「ナ」について
 この部分は古代の言葉の使い方では、現代語の「〜の」に相当する助詞になるようです。

「カワ」について
 この部分は「川」「河」ですから現代の川になると思います。

以上の三つを総合して考えると、「ヌナガワ」は「玉の川」の意味と
「沼河」の「水が澱んだ泥の川」になると思います。
私の考えでは、現在ヒスイを産する川は糸魚川市の姫川、青海町の青海川のふたつで、
「水の澱んだ泥の川」とはまったく縁のない、素晴らしい清流です。
したがって古典に出てくる奴奈川は「玉の川」と解するのが自然であり、私はそう理解したいと思います。
 地域名、河川名に「玉の川」とは古代の人たちもなかなか粋じゃないですか。

「玉のような赤ちゃん」「玉にキズ」等々是非、漢和辞典で「玉」をひいて見てください。
大事な物、美しい物、高貴な物、大切な物の例えに使われた言葉「玉」。
これは現代日本にも脈々と受け繋がれているのです。




三、「奴奈川姫」

古事記に見えるヌナガワヒメ

681年天武天皇の命により古事記の編纂が開始され30年後の712年に完成されました。
その古事記上巻に「奴奈川姫」が出てきます。
これは出雲の神である八千矛の神
(大国主命と云われていますが、縄文時代からのヒスイ玉の流通から考えて、素戔鳴尊の方が正しいと思われます。)
が賢く、美しい高志の奴奈川姫のもとに求婚にやってくるおはなしです。


古事記に記された奴奈川姫と八千矛の神との出会い


八千矛の 神の命は、
八島国 妻纏きかねて、遠々し 高志の国に賢し女を ありと聞かして、
麗し女を ありと聞こして、さ婚ひに あり立たし婚ひに あり通はせ、大刀が緒も いまだ解かずて、
襲をも いまだ解かね、嬢子の 寝すや板戸を押そぶらひ 吾が立たせれば、
引こづらひ 吾が立たせれば、青山に ぬえは鳴きぬ。
さ野つ鳥 雉子は響む。庭つ鳥 鶏は鳴く。うれたくも 鳴くなる鳥か。
この鳥も うち止めこせね。いしたふや 海人馳使、事の 語りごとも こをば。

ここにその沼河日売(ヌナカワヒメ)、いまだ戸を開かずて内より歌よみしたまひしく、

八千矛の 神の命。
ぬえくさの 女にしあれば、吾が心 浦渚の鳥ぞ。
今こそは 吾鳥にあらめ。後は 汝鳥にあらむを、
命は な死せたまひそ。いしたふや 海人馳使、事の 語りごとも こをば。

青山(黒姫山)に 日が隠らば、ぬばたまの 夜は出でなむ。
朝日の 咲み栄え来て、たくづのの 白き 腕、沫雪の わかやる胸を
そ叩き 叩きまながり真玉手 玉手差し纏き股長に 寝は宿さむを。
あやに な恋ひきこし。
八千矛の 神の命。事の 語りごとも こをば。

かれその夜は合わさずて、明日の夜御合したまひき。

 このように遠く出雲から賢く美しい姫が高志の国にいると聞き、はるばるやってきて求婚する物語です。
船で何日も旅をし、やっとの思いで姫の屋敷にたどり着き、板戸の外で求婚し待っているのに
その夜は奴奈川姫に拒まれ、翌日にやっと結婚されたと書かれています。

 この説話から奴奈川姫の首長としての強さが見えていると同時に
この結婚を境に高志の国が出雲王国に従属していったのだと思われます。
頃は弥生時代、西暦150年から200年頃のことと思われます。

記紀で大国主を「大物主、八千矛の神、大穴持等」を別の呼び名としていますがそうは考えていません。
なぜなら記紀以前の神社の祭神を調べていくと、
日本で最も古い奈良県桜井市の「大神神社」の祭神は「大物主大神」
「大己貴大神」「少彦名神」となっていて大物主と大国主=大己貴は別人として
祀られているのです。

「八千矛大神」も旧官幣大社の「大和神社」など日本各地に
武勇の神として素戔鳴尊が八千矛大神として祀られているのです。

考古学的な遺物の側面から判断しても、ヒスイの流通は大国主命の時代よりずっと前から始まっており、
奴奈川姫の結婚相手は素戔鳴尊が正しいと考えています。






出雲国風土記に見えるヌナガワヒメ

713年元明天皇の命により諸国より報告させて作られた地方別の書物、
風土記のうち 出雲の国風土記、嶋根郡の条、三保の郷に次のように書かれています。

所造天下大神命、(おほかみのみこと)高志国に坐せる神意支都久辰為命(おきつくしゐのみこと)
の子、俾都久辰為命(へつくしゐのみこと)の子、奴奈波比売命に娶ひて産みましし神、
御穂須
須美命(みほすすみのみこと)、是の神坐します。故、三保と云う。

この文章から奴奈川姫の祖父、父の名前が見えています。
具体的に奴奈川姫の親神の国津神の名前が文章として残っているのは、この出雲の国風土記だけのようです。
この親神の神意支都久辰為命(おきつくしゐのみこと)、
俾都久辰為命(へつくしゐのみこと)を
祭神にしている神社がもし糸魚川、青梅近隣にあればそれはすごいことだと思います。

 余談ですが、現在の京都、古代の丹波一ノ宮「元伊勢」籠(この)神社、祭神、彦火明命(ひこほあかりのみこと)
(正式名は天照国照彦天火明櫛甕玉饒速日命、
この神は日本書紀の上では神武天皇が東遷する前に先に天孫として大和にいた神として出てきており、
実体は三輪山の大物主の神として日本最古の神社、大神神社祭神として祭られています。)

この神社に国宝となっている海部氏系図と共に、我が国最古の伝世鏡として「オキツ鏡」「ヘツ鏡」という2枚の鏡が伝わっています。
鏡の年代調査で、これらの鏡は2000年前の中国鏡である事が証明されています。
この海人の海部氏に伝わる鏡の名前のあたまのオキツ、ヘツこそヌナガワヒメの祖父神名(おきつくしゐのみこと)
父神名の(へつくしゐのみこと)のあたまのオキツ、ヘツという言葉と同じです。

古典では、「オキツ」は海の沖のこと、「ヘツ」は海の浜寄りのことを指します。
奴奈川姫は日本海に栄えた高志王国の中心人物の海神の娘だったのではないでしょうか。
奴奈川地域の神社を詳しくすべて調べてみると案外思いもよらない事実が出てくるのかもしれません。

 記紀伝承によらない真の奴奈川姫は、高志王国の成立と共に我が国の歴史が始まるずっと前から続いており、
奴奈川地域の縄文、弥生、古墳時代遺跡の発掘遺物、実験考古学、神社伝承学、
ヒスイなどを統合してこの地域の研究をしていく事は、まさに日本人文化の根幹に迫っていく事に繋がると考えています。






四、「奴奈川の玉」をめぐって

万葉集に見える奴奈川の玉:

 奴奈川の玉が文献に登場するのは、奈良時代に出来た我が国最古の歌集、万葉集、
巻第13の歌(三ニ四七)には
「沼名河の底なる玉、求めて得まし玉かも、拾ひて得まし玉かも、あたらしき君が老ゆらしく惜しも」
とみえています。

これを現代の言葉になおすと、
「奴奈川の底にある玉は、本当に立派な玉です。その玉をさがしてやっとの思いで手に入れたり、
偶然拾って手に入れたりすると、本当に大切に感じ大事にいたします。
その玉のような大事な、若いあなたが年老いて行かれるのは、ひどく惜しまれてなりません。」
という意味になります。

古代権力者の象徴で珍重された玉にたとえて、大事な人が年老いて行くのを嘆いた歌のようです。
 この歌がいったいどこで詠まれた歌であるかはわかりませんが、相手のことを「君」と言っていることから、
女性が詠んだ歌である事は間違いないと思います。
(古代は女性が男性を呼ぶときに「君」と呼んでいたそうです。) 

相手の男性が年老いて行くのを惜しんだ歌、つまり女性上位の歌で、
万葉集には四千五百ほどの歌があるそうですが、女性上位の歌は、この歌だけのようです。
もしこの歌が奴奈川地域で詠まれた歌なら、まさに奴奈川姫から続く女王国の伝統を
継承しているのではないでしょうか。

 この歌の「沼名河」を空想上の川と紹介している人も多々あるようですが、私はそうは思っていません。
なぜなら、他の古典に多く出てくる「ヌナガワ」をみても判るように、異なった時代、異なった地域の古典に
同じ「ヌナガワ」として出てきています。
空想上の名前「ヌナガワ」がそう都合よく揃って出てくるはずはありませんから。


『魏志』倭人伝に見えるヒスイの大勾玉(青大句珠):

弥生時代の日本の様子を伝えた中国の歴史書、正式には「三国史.魏書.東夷伝.倭人の条」の
最後の方にこのような文章が記録されています。


「壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送政等還因詣臺獻上男女生口三十人
 貢白珠五千孔青大句珠二枚異文雜錦二十匹」


これには邪馬台国の女王「卑弥呼」の死後、13才で王位についた「壹與(トヨ)」が
魏の都洛陽に使者を送ったときに献上した品物が書かれています。
この中に「男女30人の生口(奴隷)を献上し、白珠(真珠)五千孔、
青大句珠二枚、異文雜錦二十匹を朝貢した
」と書かれています。

この中の青大句珠二枚は字の通り、緑の勾玉(ヒスイ)玉であったろうと思われます。

 縄文時代から続くヒスイ交易によって、すでに3世紀には奴奈川地域と邪馬台国の間で緊密な
関係が結ばれており、当時の倭の特産品「ヒスイの大勾玉」が魏に贈られていたことを証明しています。

その価値は白珠(真珠)五千個に対して二個ですから、既に弥生時代にヒスイは
大王クラスの人間しか持てない、権威と富の象徴だったようです。

 

八尺瓊の勾玉:

 多くの古典に出てくる「八尺瓊の勾玉」。これは現在、皇室の三種の神器の一つになっています。
この八尺瓊の勾玉は日本神話の中では、天の岩戸の話や天孫降臨の話の中に出てくる神宝です。
天孫降臨が事実かどうかは別にして、古典上は日本創造のころからあったことになります。

『日本書紀』には「八坂瓊の五百筒御統 ヤサカニノイホツミスマル」、「五百筒御統の瓊」などの言葉で見えており、
『日本書紀』巻第六の垂仁天皇の条、石上神宮のところにはこのように出てきます。

「昔、丹波の国、桑田村に名をミカソという人がいた。ミカソの家に犬がいた。
名をアユキという。この犬は山の獣「ムジナ」を食い殺した。
獣の腹に八尺瓊の勾玉があった。それを献上した。この宝は今は石上神宮にある。」
と出てきます。

『古事記』には「八尺の勾玉の
五百筒の美須麻流の珠」などと出てきます。
 現在使われている「八尺瓊の勾玉」をそのまま素直に現代語で解釈すると、下記のように解釈できます。

「八尺」 :大きいこと、長さが長い事
「瓊」   :赤い玉、玉 

となり、現代語では、「大きな赤い勾玉」となります。赤い玉といえば、赤瑪瑙か赤玉の
大きな勾玉という意味になります。

 しかし本当にそうでしょうか。なぜなら「ヌナガワ」の言葉の意味の時と同じように「ヤサカニ」という言葉に
字を当てはめただけのような気がしてきます。
日本書紀、古事記、両方の言葉の表記を見ると判るのですが、「ヤサカニ」で使われている漢字が異なります。
「ミスマル」も異なった字が使われています。これらを検証してみます。


「ヤサカ」 : 「八尺」大きいこと、長いこと、の意味、「弥栄」ますます栄えること
の意味のふたつになると思います。このふたつで私が取りたいのは「弥栄」の方です。
勾玉は元来その玉が持つ霊力を身に付けようと佩用をはじめたものです。
話しがそれますが、玉という言葉には本来の「玉」のほかに「魂」や「精霊」の宿る「よりしろ」としての意味もあります。
ですから当時の大王が佩用する玉には「ますます栄える」ことが重要でそれを使った、
つまりこの「ヤサカ」は「弥栄」であったと思います。

ちなみに全国に点在する「八坂神社」はまさにこの「ヤサカ」で夫婦と八人の子供達(素戔鳴尊と奇稲田姫と8人の子供)
その子供たちがみんな栄えたというので、それが「八」という数字に結びつき全国に広まったものと考えられます。
素佐之男尊の地元出雲では「八坂」ではなく「弥栄神社」なのです。

「ニ」    : 「ニ」は「瓊」の音韻変化で、「ヌナガワ」の「ヌ」と同じ意味で、これは玉を意味する言葉であります。
この「瓊」が持っている赤い玉の意味が実際に古代にあったかはわかりませんが現代にはあるということでここでは理解しておいてください。

これらの考察を踏まえて意味を理解すると、

「ますます栄える力を持つ玉」

となり、意味が良くわからなくなってきますが、ここでは気にせず検証を続けます。

 次に検証するのは「八坂瓊の五百筒御統 ヤサカニノイホツミスマル」の「イホツミスマル」を検証してみます。

「イホ」 :「五百」は「イホ」で数が多いことを表します。この「イホ」は古事記、日本書紀ともに同じ表記です。

「ツ」  :「ツ」は格助詞で現代語の「〜の」に相当します。

「ミスマル」:「御統」、「美須麻流」で読みは同じ「ミスマル」です。
意味は「ミ」は接続語、「スマル」は「スバル」の転化で「多くの玉を紐で統べ貫いて、環状にして首飾りにしたもの」
の意味になります。

上記の考察の意味を踏まえて「八坂瓊の五百筒御統 ヤサカニノイホツミスマル」の
意味を現代語になおしてみると、次のようになります。

「たくさんのますます栄える力を持った玉で出来た環状の首飾り」

 ここまでで検証した結果では、
1、「瓊」の持つ「赤」の意味が明快になっていない。
2、「たくさんのますます栄える力を持った玉で出来た環状の首飾り」ではいまひとつ明快ではない。
の2点が残っています。

そこでこれら検証結果に『釈日本紀』巻六の『越後の国風土記』に書かれた有名な逸文を加え検証を加えます。
この逸文にはこう書かれています。
 

「越後の国の風土記に曰はく、八坂丹は、玉の名なり、玉の色青きを謂ふ。故れ、青八坂丹の玉といふ。」

この逸文には非常に重要なことが書かれています。
一、「八坂丹は、玉の名なり。」 これは「ヤサカニ」は名詞であることを意味しています。
ニ、
「玉の色青きを謂ふ」これは玉が青いことを意味しています。
ここで重要なのは八坂丹の「丹」の文字で、この漢字か ら意味を探ると「染料にするための赤い土」である事がわかります。
「瓊」の時と同様で『赤』を意味する字があるのにも拘らず、『青き』と云っています。 
この「青」は決して現代のブルーでなく、「緑」を意味します。「青葉」「青信号」これらはみんな「緑色」です。
これらのことから分かる事は「ヌナガワ」の時とおなじで表記された漢字は当て字であって、
文字から意味を導き出す手法はあまり意味がないようです。

いままでの考察を総合し、「八坂瓊の五百筒御統 ヤサカニノイホツミスマル」を解釈すると下記のようになります。

      「おおくの緑色の美麗な弥栄の玉で作った首飾り」


これこそ奴奈川で生れたヒスイ勾玉の首飾りで、大王、天皇の胸を飾るにふさわしい玉であり、
決して赤い玉などではないということが判明しました。
これこそ有史以前から栄えた奴奈川地域の文化の高さの一端を垣間見ることが出来る良い証明かもしれません。